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    房一はすつかり夢中になつていた。

    さう呟くと、小谷は追鮎の力を試すやうに竿を高く上げてみた。彼のきいきい云ふ金属性の声は、こんなひとり言のときでも絶えず房一に向つて話しかけたがつているやうであつた。

    「おつ」

    若しもこの時誰かが、この男、徳次に向つて君はこの奥さんの幼い時に抱いたり負んぶしたりしたことがあるのかねとからかひ半分に訊いたら、彼は本気になつて考へこみ、何かしらそんなことがあつたやうに思ひ出し、信じこんだかもしれない。何しろ彼は房一とあんなに親しかつたのだ。盛子はその房一の奥さんだつた。してみれば、やはり古い以前から知つているも同然ではないだらうか。抱きかゝへてあやしたこと位あるかもしれない。

    「ふむ」

    何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取くまどりのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いていた。

    そこで自分がどんな取扱ひをうけるか、あたり前の医者としてか、それとも単に「芋の子」に過ぎなかつた高間道平の憎まれ息子としてか、房一は少からず興味を持つた。が、大体予測がつかないではなかつた。きつと、医者として認めたがらない気持がそのまゝ現れるだらう、と。

    ゆつくりと時間をかけて、楽しみ楽しみ喰べた。それは喰物のおいしさよりも、かうやつて小娘のやうな真似をするのがおいしかつたのだつた。

    この町に一体火事なんて、いつあつたらう。たしか、三年前に一度、そして去年の春さきに小火ぼやが一度、それも藁火が離納屋に燃え移つただけのことで、それだのに殆ど町中がいや近在からも山を越して人が集り、提灯ちやうちんが集り、大変な騒ぎだつた。めつたにないどころではない、他のことは忘れても、この殆ど珍重すべき火事は、そのあつた年も、場所も火元の蒼白な顔も、ありありと覚えこんでしまはれるのだつた。

    当時の三百円は大金たいきんだったでしょう。少くとも田舎大工いなかだいくの半之丞には大金だったのに違いありません。半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計うでどけいを買ったり、背広せびろを拵こしらえたり、「青ペン」のお松まつと「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢ごうしゃを極きわめ出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛とたん屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋だるまぢゃやです。当時は今ほど東京風にならず、軒のきには糸瓜へちまなども下っていたそうですから、女も皆田舎いなかじみていたことでしょう。が、お松は「青ペン」でもとにかく第一の美人になっていました。もっともどのくらいの美人だったか、それはわたしにはわかりません。ただ鮨屋すしやに鰻屋うなぎやを兼ねた「お」の字亭のお上かみの話によれば、色の浅黒い、髪の毛の縮ちぢれた、小がらな女だったと言うことです。

    「それに――」

    何となく視線が自分に向けられるのを感じながら、房一は案外に落ちついていた。予期した通りだつた。房一の腹の中はきまつていた。

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