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男は面喰つて何を云はれているかはつきり判らないらしかつた。房一はその眼の中をしつかりとのぞきこみながらつゞけた。病院づとめの生活で、房一は患者の気持をのみこんでいた。たとへ病気がはつきりしなくても正直にありのまゝを云ふのは禁物だつた。病人は何か断定を欲するものだ。今の場合は別だが、十二指腸虫といふ名前さへろくに知らないこの男に、いきなりその病源を云つたところで疑はしく思ふのは明かだつた。
「それぢや、向ふの座敷へ行つて少し休みませうか」
「へえ、いえ」
「御機嫌だつたね」
「一体どうしたというのだ。」
そして、こんなにはつきりした明るさの中で、もう十分に伸びつくした草地だの山地の樹木は、やたらにもくもくし、ぢつと息をつめているやうであつた。それは全体に黒つぽい様子をしていた。そのいくらか濁つた、一杯に成長し切つたことを示す黒味の中には、何かしらすぐ傍までやつて来ている九月の爽やかさを感じさせるものがあつた。
「はあ、はあ」
今まで曾かつてそんなことを考へたことはなかつた。いや、今の瞬間だつて考へたとは云へまい。たゞ、それは閃いて、捉へにくい影を落して通り去つただけだつた。――盛子は退職官吏の切りつめた地味な家庭で、ありきたりの厳しい、だが単純な躾しつけを受けて従順に育つた。娘の頃に、一体どんな形の結婚が自分を待つているのか考へないではなかつたが、それはいつも漠然としたとりとめもないもので、又それ以上に空想するほどの材料は何一つなかつたと云つてもよい。したがつて彼女の頭に浮ぶ結婚生活はをかしい位に家事向きのことで一杯になつていた。お裁縫だの、洗ひ張りだの、糠味噌の塩加減、野菜の煮方、その他細こま細ごましたことが彼女の空想を刺戟した。
「これはあなたがお乗りになるので――?」
それは何となく不思議なことだつた。家にいたところで別に賑かに喋しやべり立てるわけでもなし、むしろ年中窮屈さうに不服ありげに無口で固い顔をしている茂子が、今この家にいないと知つただけで、こんなに伸び伸びし、自分がさう思ふだけでなく、そこらにある家具までが何となく気楽さうに見えるとは!
今度は、徳次も完全にびつくりしてしまつた。彼のきよろりとした眼には、どこか少し先きで火事があると聞いた時のやうに、何だか落ちつかない、興昧ありげな色が浮んでいた。
「小倉組の連中が来たちふぢやないかね。ほんとうかね」