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鬼倉は低い声で、はじめてぢつと相手を見た。が、それつきりだつた。動きもしない。徳次は何故ともなく一寸ひるんだ。が、又、
徳次は房一がそれなり立去つて行つたものとばかり思ひこんだ。だからおれは知らん振りをしたかつたんだ、こつちでやきもきしても先方では毛ほども思つてやしないんだ。ちよつと頭を下げる、今日は、はい左様なら、だ。畜生め。――と、徳次は相手がちよつと自転車から降りただけでもうすつかり忘れてしまふところだつたこれまでの心外さをもう一度よび戻さうとつとめながら、口惜しさうに、半ばは呆然として房一の行つた方を眺めていた。
大石練吉は日盛りの往診からもどつて来ると、暑さのために不機嫌さうな顔になりながら、自転車を手荒らに立てかけ、とりつけた鞄もそのまゝにして、のつそりと診察所から上つた。
今度は、徳次も完全にびつくりしてしまつた。彼のきよろりとした眼には、どこか少し先きで火事があると聞いた時のやうに、何だか落ちつかない、興昧ありげな色が浮んでいた。
二人は今船で流れの上を渡つていた。綱を手繰たぐる徳次のわきには房一が自転車のハンドルをつかまへて立つていた。全体に銀白色の金属でつくられたこの自転車はいかにも新しげだつた。それさへ、徳次の目には医療器具か何かのやうに特別な機械に見えた。
と、盛子は大げさに滑稽な顔をしてみせた。
日は高く上つて、噎むせるやうな温かい空気が、時々、風の工合で河原の方からやつて来た。徳次も切り上げて来た。三箇の魚籠びくを中にして、頭を並べて獲物を見せ合つた。
この「芋の子」は小学校を卒業するとすぐ畑へ追ひやられる筈であつたが、成績がよかつたのと彼の願ひによつて高等科に上ることになつた。その二年の間に彼は身体も心もめつきりと成長した。年齢の若さから来る皮膚の艶や筋肉の柔かさは争へなかつたが、骨格は骨太でがつちりしていた。彼の粗暴さが今はすつかり姿を消して反対に或る素直で従順な所が出て来ていたので、彼の骨格の逞ましさが何となく滑稽な愛嬌のあるものにさへ見えた。しかし彼の額には年に似合はない一本の深い皺が出来ていた。それは時々非常に深く黒く見えることがあつた。それを見ると、人は彼の中に案外な考へ深さのあるのを認めて驚くのであつた。
徳次はしばらく考へていた。
「それが、その、来ないわけがあるのさ」
と、敬遠するとも小莫迦にするとも見える頭の下げ方をして、さつさと行つてしまふのであつた。
と、練吉は房一の方をふりむいた。
その外から見れば屋根と築地塀だけのやうな家の前で、三人の男が立つてしきりと話していた。